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主の御腕

T・オースティン-スパークス

第4章 十字架

私たちの多くは主の民として、「今日、主に御力を示してもらう必要が大いにある」ということに、おそらく同意するでしょう。これは個人的な告白かもしれません。私たちはみな個人的に、「主に生活の中で何かをしてもらう必要が大いにあります――私の内に個人的に、そしておそらく私の務めにおいても、何か新しいこと、何か力強いことをしてもらう必要があります」と言うでしょう。さらに、自分の連なっている信徒団体にもこのような必要――新しい方法で力をもって主に動いてもらう必要――があることを、私たちの多くは告白するでしょう。しかし、私たちは範囲を最大限に広げて、「全教会、全世界で、主に何か力強いことを行ってもらう必要が大いにある」と言えるのではないでしょうか?

では、主の御腕は誰に対してそのような方法で示されるのでしょう?この問題についてさらに考える前に、ある仮想的な状況を示すことにします。

仮想的状況

とても深刻な難病がある患者を苦しめているとしましょう――その患者は私たち自身、団体、教会、世界のいずれかです――そして、ある医者が診察します。その医者はかなりの経験と知識を持っており、少なからぬ権威を持っています。真剣かつ慎重な考慮の末に、彼はこの問題に関して明確な結論に達し、「自分には治療法があります」と言います。これについて疑問はまったくありません。しかし、幾つかの理由により、助けたいという彼の願いは相当な困難に直面します。

第一に、彼は自分の治療法が心地よいものではないことを説明しなければなりません――その治療法は実に苦しいものであり、患者の好みと正反対で、おそらくかなりの期間にわたって真実な協力とがんばりを必要とし、多大な忍耐と信頼を要求します。次に、彼は別の問題に直面します。患者はその治療法について前に聞いたことがあり、おそらく何度も聞いたことがあります。その反応は次のようなものです、「その治療法については何度も聞いたことがあります。それについてはこれまで何回も話題にのぼっています。先生はこれしか能のない偏屈な方なのでしょう。もしかすると、先生は変わり者なのかもしれません。治療法を少し変えられないでしょうか?もう少し快適な別の方法を用いられないでしょうか?私たちはこの一つのやり方に縛られなければならないのでしょうか?」。反対がさらに強くなるとこうなります、「この治療法はあまり人気がないことをご存じでしょう。世論はこれを批判しています。これについては多くの異論があります」。

こうした数々の問題に彼は直面します。彼はどうするべきでしょう?こうした阻害要因に譲歩して、治療を放棄するべきでしょうか?それとも、自分の仕事を続けるべきでしょうか?この問題を別の角度から見ましょう――患者の観点から見ましょう。この問題に関して、患者の態度は論理的にどうあるべきでしょう?それはこうあるべきではないでしょうか――「疑いなく状況は深刻であり、とても込み入っています。代わりの案は何でしょう?何か代わりの案があるのでしょうか?別の方面に見込みや方法や方策はあるのでしょうか?公平かつ正直になって、この方法を徹底的に試してみるべきではないでしょうか?私は自分の状態の深刻さを切実に感じていて、世論や個人的な感情や反応、好き嫌いをすべて脇に置いて、これに打ち込む気があるのでしょうか?」。

さて、これこそまさに私たちの置かれている立場です。神の民の霊的生活が抱えている大きな必要は、広く認知されています。それなのに、ありとあらゆる議論が飛び交っているのです。「この特別な事柄についてはかなり話題にのぼっています――それは何度も聞きました」、「この件では世論が大いに分かれています」、「それは全く気に入らない」というように。しかし、肝心な点は、第一に、「状況はとても深刻なので、あらゆる迷いを捨てて、その治療法を徹底的に試す必要があることを、私たちはわかっているのか」ということであり、第二に、「何か代わりの案はあるのか――これ以外の方法で、この状況全体が改善される見込みはあるのか」ということではないでしょうか?

唯一の治療法

もちろん、あなたは言うでしょう、「その方法とは何でしょう?治療法は何でしょう?あなたが話しているのは何のことでしょう?おそらく、あなたはすでに結論を出しておられるでしょう。私たちのあらゆる霊的病に対する治療法、唯一の治療法、確かな治療法は十字架です――私たちの主イエス・キリストの十字架です。十字架は私たちの肉にとって快くありません。十字架は私たちの好みや嗜好とは正反対で人気がありません。十字架の働きというこの問題に関して、クリスチャンの意見は大いに分かれています」云々……。しかし結局のところ、私たちの状態はいっこうに良くならず、私たちの必要もいっこうに満たされません。状況は依然として改善されません。あなたがこれを理解しているかどうかには関係なく、キリスト教の状況、クリスチャンたちの間の状況は、とても危機的です。例として、主の民の間の分裂の問題を取り上げましょう。分裂は障害であり、邪悪なことであり、深く根を張った病の働きであり、神の教会全体の構成を傷つけています。ですから、この問題の周囲を行き巡り、多くの観点から眺めるなら、「誇張ではなく、状況は深刻である」ということがわかるでしょう。

神の御言葉はこの唯一の治療法を私たちに提供しています。それは完全かつ徹底的に証明されています。それには最も確かな権威の裏付けがあります。個人生活や団体生活で、それは何度も実証されてきました。神の御言葉は、別の道では何の代替案も見込みも私たちに提供していません。十字架が答えなのです。

少しの間、イザヤの預言をもう一度見ましょう。これまで考えてきた五二章一三節から五三章終わりまでのこの区分が示しているように、十字架こそ、この世界の多くの面にわたる複雑極まりない状況に対する治療法です。この状況を構成しているものを、すべてここに見ることができます。それは罪です!罪!「彼は多くの者の罪を負った」――ここの言葉は「間違い」、「失敗」です。違反!――「反逆」を意味するさらに強い言葉です――「彼は私たちの違反のために傷つけられた」。咎!――「私たちの強情さ」を意味します――「主は私たちのすべての咎を彼に負わせた」。間違い、失敗、反逆、強情さ――これらがこの病のはじまりです。病気、苦痛、悲しみ――この章の言葉を使ってこの病をさらに詳しく描写することができます。それをみな一つにまとめるなら、「この患者はとてもひどい状況にあります。見立ては実に重症です!」とあなたは言うでしょう。この章には、全体として、ただ一つの目的しかありません。すなわち、主イエスの十字架こそ、このすべてに対する治療法であり答えである、ということを示すことです。すべては十字架によって対処され、清算されるのです。

キリストの高揚と立証

しかし、ここで少しの間戻って、二つの点を考えなければなりません。この時点で、「主の御腕は誰に現されるのか?」という疑問が生じます。この章の残りの部分は、この問いに対する答えです。主のこの御腕は現状に介入する神であり、技能、力、知恵、能力をもって介入し、状況を取り扱い片づけます。十字架はこの全体的状態に対抗して介入する主の御腕である、とこの章は述べています。主の御腕はこの状況に対抗します。これが最初の点です。

しかし、それ以上のものがあります。主の御腕は、ある新しい状態、あるはっきりと規定された目的のために介入します。その目的とは、イエス・キリストの高揚と立証未満の何ものでもありません。これが二番目の点です。主の御腕はこのためです。しかし、彼の高揚と立証には、十字架がこの状況を片づけることが必要です。もちろん、新約はこれに集約されます。イエスが高く上げられ、立証されたのは、カルバリで状況が片づいたからです。キリストの高揚と立証は力と子孫によることに注意して下さい。この二つがこの区分を結び合わせました。最初に(五二・一三)、「私のしもべは高められ、上げられ、非常に高くなる」とあります。次に、この区分の終わりには(五三・一〇、一一)、「彼は自分の子孫を見る。(中略)彼は自分の魂の苦しみを見る」とあります。力をもって「非常に高く」上げられます。子孫は「自分の子孫」――言い換えると、彼の教会――です。

さて、これはこの問題を私たちにとって非常に身近なものにします。なぜならこれは、キリストの高揚とキリストの立証のために関心を持つべきことを、私たちにまず要求するからです。これが提起されている問題です。各々、「自分は主イエスの高揚と立証のために、どれだけ個人的に本当に関心を持っているのだろう?」と自問しましょう。私的な会話で個人的にこう尋ねられたら、あなたはきっと、「私はそれについて非常に重大な関心を持っています。彼の高揚と立証こそ私の最大の願いであり、何よりもそのために働きたいのです。私たちの人生と働きの目的として、これよりも偉大なものがあるでしょうか?」と言うでしょう。あなたはそう言うにちがいありません。しかし、私たちの関心の証拠となるもの、私たちの関心の大きさを測るものは、十字架を受け入れる覚悟がどれだけあるかであることに、私たちは気づいているでしょうか?十字架の道以外に、主イエスの高揚と立証に至る道はありません。自分が本当に関心を持っているのかどうか、またどれだけ関心を持っているのかは、主にとって不名誉な状況をすべて片づける十字架の働きを、どれだけ自分自身に受け入れる覚悟があるのかによってわかります。

十字架はこれに至る唯一の道である

主イエスの高揚、戴冠、栄化について話したり説教したりすることは、とても容易です――こうしたことについて話すのは素晴らしいです。もちろん、この彼の教会、キリストの教会、彼のからだである教会は、とても偉大です――神の偉大な傑作です。たしかに、私たちはこれについて話すのが好きです。しかし、これらのものが私たちの内なるいのちをとらえているかどうかの試金石は、どれだけ自分の内で十字架に働いてもらうかです。なぜなら、これらの偉大な事柄――彼の高揚とその教会――は、信者の内に十字架が働かなければ実現されえないからです。

これはただちに持ち上がる要求であり、とても深く心を探ります。私たちが主と共に前進する時、遅かれ早かれ、いずれにせよ、そうなります。私たちの言葉使い、話、振る舞いはみな、これによって試されるでしょう。主は言われるでしょう、「そうです――しかし、この特定のことやあのことで、あなたは自分の内に十字架の働きを受け入れる覚悟があるでしょうか?――あの特定の関係、あなた自身に関するこの事柄、あなたが関わりを持っているあの件についてはどうでしょう?あなたは十字架にこれらのものを対処してもらう覚悟はあるでしょうか?」。これに対する答えから、結局のところ、私たちがキリストの高揚と立証のために関心を持っているかどうかがわかります。十字架に対する私たちの評価や態度によって、これらに対する私たちの関心がわかるのです。

他方、「おお、十字架についてはこれまでさんざん聞いてきました。まったくワンパターンですね」という道を取るなら――十字架を見下したり、神が設けて下さった十字架をそれ以下のものとするような姿勢を取れるなら、また私たちの態度が十字架の重要性を過小評価しうるものなら、それは私たちが主イエスの高揚に対するこの関心によってまだ内的にとらえられていない証拠です。

忘れないで下さい、十字架がなければ、彼ご自身も決して高く上げられなかったでしょう。あの力強い「それゆえに……」があったのです。それゆえに?「死に至るまで、実に十字架の死に至るまでも従順になられました。それゆえに、神もまた彼を高く上げて……」(ピリ二・八、九)。十字架がなければ、彼は決して高く上げられなかったでしょう。そして、彼の民の中に十字架が働かない限り、原則として、彼は決して高く上げられません。十字架があなたや私の中にあるものを対処しない限り、主イエスが私たちの生活の中で栄光を受けることはありえません。これは明らかなことではないでしょうか。彼の教会に関しても――十字架がなければ教会は決して誕生しなかったでしょうし、十字架がなければ今日教会の現れもありえません。教会の始まり、継続、成長、究極的完成は、常に十字架の法則によります。霊的であれ、人数的であれ、教会の増し加わりは常に十字架によります。他に方法はありません。ですから、これは私たちに対するとても現実的な試金石であり、とても現実的な課題です。

十字架は積極的なものであって、消極的なものではない

さて、ここで再び、御霊は次のことを示されます。すなわち、神の道と手段は常に積極的なものであって、消極的なものではないのです。私はこれを強調して述べたいと思います。これを心に刻み込みましょう。神の道は常に建設的であって、破壊的ではありません。それには目的があり、それ自身が目的なのではありません。神の総括的・包括的手段が十字架である以上、次のことを一度限り永遠に理解する必要があります。すなわち、十字架によって神はある目的――大きな目的――に向かって動いておられるのです。十字架は決して破壊で終わりませんし、決して消極的なもので終わりません。神はある偉大な事柄のために働いておられ、このような積極的な方法で十字架を用いておられるのです。

私たちの十字架理解が不十分なのは、大部分、十字架を誤解しているせいであることがわかります。十字架に関する私たちの考えは、「十字架は破壊的であり、消極的であり、死である」というものです。私たちは十字架に反対します。この十字架の死――死、死、死――について常に聞かされることを、私たちは願いません。死をもたらすように十字架を宣べ伝えることすら可能です。しかし、それは間違った宣べ伝えです。それは神による十字架の解き明かしでは全くありません。繰り返し言いましょう。聖霊がここでとてもはっきりと示しておられるように、神の道と手段は常に積極的なものであって、消極的なものではありません。神の道と手段は常に、何かそれ以上のものを目的としているのであって、何かそれ以下のものを目的としているのではありません。それは終わりではなく、新たな豊かさなのです。

これを真に理解できさえすれば、十字架は様変わりするでしょう。主がこの要求を私たちに突きつけられたら、私たちはどうするでしょう?私たちは反抗し、後退します――私たちはそれが好きではありません!どうしてでしょう?その理由は単純で、私たちが十字架の効力を見ていないからです。この十字架の適用により、神は前よりもさらにまさったものを私たちの生活の中に――私たちの交わり、私たちの群れ、彼の教会の中に――打ち立てようとしておられるのです。これが神の法則です。神は消極的な神ではありません。他の神々(gods)は消極的な神々(gods)ですが、私たちの神(God)は消極的な神(god)ではありません。神が働いておられるのは、物事を無に帰すためではありません。神の道、神の手段にはどれも、とても大きな目的があるのです。

私たちは次のことを真に見なければなりません。すなわち、たとえどんなに十字架が消極的なものだったとしても――もちろん、十字架は何か消極的なものです――十字架は、霊的で天的で永遠に価値あるものを確保するための、神の最も積極的な手段なのです。十字架は、永遠に残るものを増し加えるための――無に帰すためではなく――神の最も積極的な手段なのです。十字架は第一に神の「否(No)」を意味するのは確かですが、彼の「否」を受け入れない限り、彼の「しかり(Yes)」――主の御腕――を持つことはできません。私たちが喜んで神の「否」に対面し、それを受け入れるなら、ただちに道が開かれて、たちまち彼の「しかり」に至ります。神の御名は「否」ではないことに注意して下さい!彼の御名は「しかり、アーメン」(二コリ一・二〇)です――彼は「アーメンの神」(イザ六五・一六)です――積極的な方であり、「まことにまことに」であり、目的を持った神です。

ですから、神がやって来られるのは創造(回復)するためであり、建造と増し加わりのためです。この確かな土台に向かって前進することが、私たちには大いに必要です。私たちは主についてこれを信じる必要があります――最も惨めな時や、すべてを取り去られて身ぐるみをはがされたように思われる時も、すべてがなくなって行き、終わりが近づいているのがわかるように思われる時も、信じる必要があります。神は価値を滅するためではなく、価値を増し加えるために働いておられます。これを信じられさえすれば!神は土地を耕し、地面を掘っておられるのであり、それは収穫のため、さらにまさった何かのためです――これが私たちの土台でなければなりません。神はなぜご自身がそのような方法でそれを行っているのかご存じです――私たちは知りません。しかし、一つのことは確かです。すなわち、神は状況を自分にとって安全なものとするために、十字架によって働いておられるのです。

十字架は神のために状況を安全なものにする

さて、主の御腕があなたや私に現されたとしましょう。主の御腕が、自分の住んでいる地元や、自分の働いている職場や、自分のつながっている群れの中に現されたとしましょう。主が大能の御腕をもってやって来られ、繁栄と増し加わりによってこの御腕を示されたとしましょう。何が起きるでしょう?あなたは「これは自分にはあてはまらない」と感じて、これに同意しないかもしれません。しかし、まさにここで私たちの心は欺かれるのです。何が起きるか、お話ししましょう。あなたや私は脚光を浴びるようになり、それでふんぞりかえって歩くようになるでしょう。今や、それは成長し、拡大し、繁栄し、注目を集めるものになります。私たちは尻尾をいっぱいに広げたクジャクのように歩き回り、まるで――実際にはそうしなくても――「監督」「総支配人」等々と大きく記されたバッジを身につけているかのようでしょう!私たちはそれについて話し始めます。そして、人々が自分のことを話し始めるなら、私たちは有頂天になるのです!

これは限りなく危険なことです。神は、完全にご自身に属するものに関して、このような危険を冒されません。主は状況をご自身にとって安全なものにしなければなりません。それは、彼が大能の御腕をのばして何かを行われるとき、あなたや私がその功績を自分のものにしはじめないためであり、私たちが覆い隠された民であるためです。

この重要性はどんなに強調しても強調しきれません。おそらくこれが、キリスト教の歴史全体を通して流れている、主の御腕の現れの最も深い法則の一つではないでしょうか?最初、なぜあのような成長と拡大があったのでしょう?その後の世紀を通して、それに匹敵するものはありません。その理由は、教会が十字架につけられたキリストを神の知恵、神の力として宣べ伝えたために――世はそれを受け入れようとしませんでした――教会はむしり取られ、剥ぎ取られ、空っぽにされ、砕かれ、虐待され、傷つけられ、迫害されたからです。主の御腕はそれに対して現されたのです。教会は、この世に場所を得るために十字架のつまずきを避けようとしませんでした。むしろ、教会は十字架を宣べ伝えたのです。十字架につけられたキリストを宣べ伝えることを、教会は恥としませんでした。それにはあらゆる代価が必要でした――しかし、主の御腕が現されたのです。

私たちに対する何と途方もない学課でしょう!

イザヤ書のこの章に戻ります。この章は新約と神のすべての道の真髄であり、次のことを示しています。すなわち、主の御腕は、あの卑しめられ、空しくされ、さげすまれ、砕かれ、十字架につけられた、僕なる御方に対して現されるのです。これが永続的な法則です。これについて間違わないようにしましょう――あなたや私に、独断の霊、自信の霊、「支配の」霊といったものがあるなら、主の御腕は現されません。しかし、主が剥ぎ取り、空にし、注ぎ出し、無に帰しておられるようであるのを私たちが見るとき、次のことは確かです。すなわち、彼は状況を安全なものにして御腕をのばせるようにするために、それを行っておられるのです。あなたはこれを信じるでしょうか?もう一度言いましょう――彼は積極的な神であって、消極的な神ではありません。ご自身から栄光を奪うものをすべて断ち切る働きを完遂成就することを許されさえするなら、彼は御腕をのばされるでしょう。あなたや私は、この類のものが自分の内にどれだけたくさんあるのか、知らないのではないでしょうか?「自分はまさにどん底に達しようとしている。もうおしまいだ。自分の内には何も残っていない」と私たちは思います。しかし、全体の状況が一変するなら――快方に向かって、拡大しはじめるなら――何が起きるでしょう?自分が再びしゃしゃり出てきます――私たちの執念深い肉がすぐに自己主張を始めるのです!十字架は大いなる掃除機であり、唯一の栄光の道です。

十字架の中心的地位

さて、この章がイザヤ書の中でどれほど素晴らしい場所にあるのかに注意してもらいたいと思います。イザヤ書の預言の構成を思い出して下さい。最初の三五章は広範に及ぶ裁きで占められています。裁きが常に神の民から始まることに注意して下さい。これが神の法則です。ご自身の民を裁いてからでなければ、どうして神は世を裁けるでしょう?三六章から三九章は、ヘゼキヤを取り扱う短い間奏曲を構成しています。それから、最後の区分である四〇章から六六章は回復と再建造で占められています。さて、この最後の区分は二七章あり、新しい展望、回復と再建造で占められていますが、その中間にこの五三章があります。これは意義深くないでしょうか?これは建造において、また回復において、十字架に中心的地位を与えます。これは常に正しいのではないでしょうか?しかし、おそらくあなたは反対して言うでしょう、「イザヤは遥か彼方、遠い昔の、古代の預言者です!」。ですから、私はここで長い話を挿入したいと思います。

いま考えたこの全体の流れは、あなたや私が生きているこの経綸にも導入されています。この流れは、ローマ人へのパウロの手紙の中にもたらされ、導入されています。また(次の章で見るように)、この流れは同使徒のコリント人への第一の手紙の中で完成されています。ローマ人への手紙を思い出して下さい。最初の区分は、アダムの種族全体に対する神の裁きを見せています。それは神の「否」であり、六章の焦点である十字架に至ります。この六章は、前の章で述べられた状況全体に対抗して立っており、十字架はそれらすべてに対して永遠に「否」と言うことを宣言します。しかし、七章を通って六章から八章に進むなら、この古い状況から新しい状況に、消極的状況から積極的状況に移ることがわかります。八章で、私たちはまったく新しい展望、まったく新しい開始の中に入ります。「ですから今や、罪定めはありません……」。罪に定められていたものは、十字架ですべて対処されました。私たちは「キリスト・イエスの中に」あります。「キリスト・イエスの中にあるいのちの霊の法則が、罪と死の法則から私たちを解放したからです」。

次に、この新たな素晴らしい展望が開かれます。これはどういう結果になるのでしょう。それはこういうことです。「しみやしわやそのようなものがまったくない」素晴らしい栄光の教会を建造することを常に目指してこられた神は、建造の土台となるものを見つけるために、人々の間の状況をご覧になりました。しかし、神は何を見い出されたのでしょう?ローマ人への手紙の最初の数章に記されている状況を見い出されたのです。それは何という描写でしょう――罪、腐敗、混乱、紛糾――人類堕落の絶望的光景です。彼はご自身の栄光の教会の土台を据えるためにやって来られた時、このような状況をご覧になったのです。そして、彼は言われました、「この上に土台を据えることはできません。この上に私の教会を建てることはできません。この土地を清め、この状況全体を片づけ、火で燃やさなければなりません」――そこで、十字架がこれを行いました。大いなる青銅の祭壇のような十字架が、裁きの強力な火で、あのねじれてゆがんだ人間性のもつれを対処しました。今、神は土台を持っておられます――それは十字架につけられたキリストです。今、彼は教会建造を進めることができます。

これが十字架の解き明かしです。十字架は、神がなさりたいことをできなくするものをすべて取り除いて、彼の御心にあるものを遂行するための、神の手段です。彼は大いなる御旨を目指しておられますが、その途上に障害物があるのをご覧になります。そこで彼は、「障害物を対処しなければならない」と言われます。

しかし、この章を終えるにあたって、ふたたび積極的特徴に戻りましょう。「十字架」という句を聞くとき、あの突然浮かぶ反抗的な考えに対して自分の思いを守りましょう――「おお、また十字架、またもや十字架、十字架とは!十字架には死しかありません。磔殺がすべてであり、すべてが消極的です!」。この示唆を断固として退けなければなりません――これは、栄光に満ちた御旨を達成するための神の最も素晴らしい道具に対する、サタンの歪曲です。「十字架」と聞くとき、こう言いましょう、「ああ、十字架は未来を意味します!それは道を清めることです。何かそれ以上のものであり、それ以下のものではありません。十字架は神の御腕が現されることです!」。パウロと共に言いましょう、「私には十字架以外に誇るようなことが断じてあってはなりません……」(ガラ六・一四)。

ただで受けたものはただで与えるべきであり、営利目的で販売してはならない、また、自分のメッセージは一字一句、そのまま転載して欲しいというセオドア・オースティン-スパークスの希望に基づいて、これらの著作物を他の人たちと共有する場合は、著者の考えを尊重して、必ず無償で配布していただき、内容を変更することなく、いっさい料金を受け取ることをせず、また、必ずこの声明も含めてくださるようお願いします。