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十字架と神の都

T・オースティン-スパークス

第三章 力、堅固さ、光、主権

前の章で、私たちは「神の都」の特徴をいくつか見ました。

1.天的性質を持つ霊的な民。「神が私たちの主キリスト・イエスの中で立てられた、永遠の御旨にしたがって」――エペソ三・十一。

2.神の民における神の栄光。ご自身の性質を一つの民において啓示し実現すること。「彼は、尊く、際立って偉大な約束を与えてくださっています。それは、これらの約束を通して、あなたたちが神聖な性質にあずかる者となるためです」――二ペテロ一・四。

3.優越性と聖さ。優越性はみこころにかなう神の民の特徴です。「彼の土台は彼の聖なる山々にある」――詩篇八七・一。「あなたたちを召してくださった方が聖であるように、あなたたち自身もすべての生活様式において聖となりなさい。というのは、『私が聖であるから、あなたたちも聖となりなさい』と書かれているからです」――一ペテロ一・十五~十六。バビロンは地に属します。シオンは高きに属します。

4.命。水晶のように輝く「命の川」。これは透明性を示しています。十二種の実を結び、その実を毎月みのらせる「命の木」(黙示録二二・二、アメリカ改訂訳欄外)。そして、諸国民の健康を維持するその木の葉。死に打ち勝つ命。キリストは死を征服されました。この内なる「命」は、今から始まって日々増すことによって、彼の民の特徴とならなければなりません。これに私たちは召されており、その「命」の中で私たちは進まなければなりません。

5.この都の豊かさと偉大さ。「その都の寸法は一万二千ファーロング(中略)都は正方形(中略)その長さと幅(中略)高さは等しい」――黙示録二一章。西半球にはこの都の場所となる一万二千ファーロングの土地はどこにも見あたりません。エペソ三・十七、十九に向かって、使徒パウロの祈りを再び読むことにしましょう、「あなたたちが御霊を通して力をもって強められ(中略)あなたたちが、愛の中に根ざし土台づけられ、力づけられて、すべての聖徒たちと共に、その広さ、長さ、高さ、深さが何であるかを会得し、そして、知識を超越したキリストの愛を知ることができますように。また、あなたたちが満たされて、神の全豊満へと至りますように」――満たされて神の豊満へと至る民です。ここに私たちは使徒の祈りの成就を見ます。これに私たちは召されているのです。

透明性という特徴。この都を構成しているものはみな、水晶のように輝いており、透明であると述べられています。ですから、神の民は神のこの御思いに近づかなければなりません。透明性が今、彼らの霊的生活の特徴でなければなりません。

さて、力、堅固さ、光、主権という特徴について考えることにします。

力、堅固さ、光、主権

この都、この神の民の土台は、とても堅固です。この土台は試みを経た石であり、その城壁は大きくて高いです。これはみな力と堅固さを物語ります。

御座は中心であり、弱さにおける神の力の現われです――御座の中央の「小さな小羊」は地獄と罪のすべての力よりも偉大です。小羊は勝利されました。御座の中央の小羊は、すべての領域で、あらゆる範囲・深さに及ぶ死に打ち勝った命です。弱さから発した力、永遠から永遠に至るまで持ちこたえる力です。そして、神の永遠の御旨にしたがって召された神の民は、キリスト・イエスにあってこの永遠の命を所有している民です。

神の民として、私たちは永遠の御旨へと至る永遠の召しにあずかっており、永遠の命を持っています。永続する、そして、あらゆることでまたあらゆることに対して勝利する命を持っています。「彼らは小羊の血によって(中略)打ち勝った」――黙示録十二・十一。

「神は私たちに永遠の命を与えられ、そしてこの命は御子の中にあります。御子を持つ者は命を持ちます」――一ヨハネ五・十一、十二、アメリカ改訂訳。ヨハネ六・五三~五六。

「聖なる都、新エルサレムが、天から出て神から下って来たが、それは神の栄光を持っていた。その光は最も尊い宝石のようであり、水晶のように透明な碧玉のようであった」――黙示録二一・十、十一。

「都には太陽は必要ではなかった(中略)神の栄光がそれを照らし、小羊がその光である」――黙示録二一・二三。

その光は最も尊い宝石のようであり、太陽は必要ありません――その光が、その主権的力で、すべてを照らしました。これらの特徴はすべて混ざり合っており、互いに関係しています。力と堅固さは光と関係しており、これら三者は主権という結果になります。こうして、私たちは主権の性質に関する理解を得ます。

「彼の土台は聖なる山にある。エホバはシオンの諸々の城門を愛される(中略)神の都よ、栄光ある事が、あなたについて語られる(中略)いと高き方ご自身が、それを確立される」――詩篇八七篇。これは――神の都に関して――この都の力、堅固さ、主権を大いに明らかにしてくれる鍵です。ここで聖霊が選んで用いておられる神の御名「エル・エルヨン(El-Elyon)」の意味――天と地の所有者であるいと高き神――を見てください。

イザヤ十四・十二~十四に向かいましょう――「ああ、ルシファー、夜明けの子よ、どうしておまえは天から落ちてしまったのか(中略)おまえは心の中で言った、『私は神の星々の上に、私の座を高く上げよう(中略)私はいと高き方のようになろう』」。そうです、いと高き神、天と地の所有者に、ルシファーは挑んだのです。天と地を所有することが彼の願望だったのです。

主イエスは、地上にいた時、サタンのことをこの世の君であると言われました。そしてエペソ六章では、神の教会に対して、その戦いは天上においてであることが示されています。神の都はエル・エルヨン、いと高き神によって確立されます。そして、サタンの勢力はみな地獄に投げ落とされます。サタンとその主権は永遠に打ち倒されます。

「確立する」という言葉を聖書全体にわたって辿ることにしましょう。「いと高き方ご自身が、それを確立される」――詩篇八七・五。

「彼は私を恐ろしい穴(ヘブル語では滅びの穴)から引き上げられた。彼は私の足を岩の上に置き、私の歩みを確立された」――詩篇四〇・二。

「シオンの山は、麗しい場所にあり(麗しい高みにあり、アメリカ改訂訳)、全地の喜びである(中略)偉大な王の都(中略)神はそれを永遠に確立される」――詩篇四八・二、八。

「彼は私の名のために家を建てる。彼は私の子となる(中略)私は彼の王国の座を永遠に確立する」――一歴二二・十。

「私は、私の選んだ者と契約を結び、私の僕ダビデに誓った、私はあなたの子孫を永遠に確立し、あなたの王座を代々にわたって建てる」――詩篇八九・三、四。

「彼は、さらに優った約束の上に確立された、さらに優った契約の仲保者です」――へブル八・六。

「いけにえとささげ物と全焼のささげ物と罪のためのささげ物とを、あなたは望まれませんでした(中略)見よ、おお、神よ、私はあなたのみこころを行うために来ました。彼は第二のものを確立するために、第一のものを取り去られます」――へブル十・八、九。

「今、私たちの主イエス・キリストご自身と、私たちの父である神が(中略)あなたたちをあらゆる良い言葉と働きにおいて、確立してくださいますように」――二テサロニケ二・十七。

「心が恵みによって確立されるのは良いことです」――へブル十三・九、アメリカ改訂訳。

「彼の中に根ざし、建造されて、あなたたちの信仰を確立されなさい」――コロサイ二・七。

「堅く立って、動かされることなく、いつも主の働きに満ち溢れていなさい」――一コリント十五・五八。

「今、あなたたちをつまずきから守り、あなたたちを傷のない者として、大いなる喜びの中でご自身の栄光の前に立たせてくださることのできる方に、栄光、威厳、主権、力が、今も、永遠に至るまでもありますように、アーメン」――ユダ二四、二五。

これらすべての節や他の多くの節は、確立するこの働きが基礎的働きであることを私たちに教えます。今日、主の民は確立される必要があります。あらゆる方面で、敵の圧迫により、大きなつまずきが起きているからです。もし人々が主にあってしかるべく確立されていたなら、このようなことはありえなかったでしょう。神の民の全般的な確信の欠如を、悪魔は武器として用いて、誤謬、間違った教え、偽物、疑い等を大々的に推し進めています。

疑念はサタンの主要な武器である

信仰の確信を妨げることがサタンの働きであり、彼の狙いは主の民に疑念を抱かせることです。疑いは、彼の働きの最も巧妙な手段です。最初の時もそうでした、「神はそう言われたのですか?」――創世記三・一。そして、これが依然として彼の方法です。これを阻止する方法、唯一の方法は、信仰の中に確立されることによります、使徒十六・五、コロサイ二・七。「信仰の中に堅く立ちなさい」―― 一コリント十六章。

「信仰の全き確信の中にある真実な心」ヘブル十・二〇。

「冷静で、警戒していなさい。あなたたちの敵である悪魔は、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと捜し求めて、歩き回っているからです」―― 一ペテロ五・八、九。

「私はあなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの座(王座、アメリカ改定訳)がある(中略)あなたは私の名をしっかりと保ち、私の信仰を否まなかった」――黙示録二・十三。

神の民が大いに必要としているのは、信仰の中に確立されることです。たんに、教理の中に、正統的福音の中に、確立されることではありません。あるいは、根本的真理についての知識を得ることでもありません。むしろ、主イエスの成就された御業と、悪魔とそのすべての働きに対する完全な勝利という根拠に基づいて、主イエスにある自分の立場を内的に知ることによって確立されることです。主の子供たちのあまりにも多くが、主にある自分の地位についてのこの確信に欠けています。しかし、こう記されています、「神は、この世の基が置かれる前から、彼の中で私たちを選び(中略)愛の中で、イエス・キリストを通して、私たちを子たる身分へと、彼ご自身へあらかじめ定められました」エペソ一・四、五。

「キリスト・イエスの中にある者には、罪定めがありません」――ローマ八・一。

「彼は、愛する者の中で、私たちを受け入れてくださいました」エペソ一・六。この受け入れは戦いと関係しています。私たちの「こんなにも偉大な救い」の中に含まれているものはみな、私たちの主イエス・キリストにある神の永遠の御旨と関係しています――エペソ三・十一。

「神に感謝します。この方は私たちを彼の勝利の行進の中で至る所に導いて、キリストの敵に対する彼の勝利を祝わせてくださいます」二コリント二・十四。

敵が神の民にキリストにある自分の立場について疑いや疑問を抱かせる時、彼らは戦う力を奪われます。神はご自身の都をしっかりと建てなければなりません。そして、私たちは信仰の全き確信の中に立たなければなりません。

「都の城壁の土台は、あらゆる宝石で飾られていた」――黙示録二一・十九。

「あなたたちの信仰が試されることは、金が火によって試されることよりも遥かに尊いのであって、イエス・キリストの出現の時に、賛美と誉れと栄光となって現れるのです」―― 一ペテロ一・七。

内なる問題が解決される時、あなたは働きに取り掛かることができます。全き確信をもって信仰の中に確立されることにより、私たちは主権者たちや権力者たちを打てるようになります。しかし、疑念、疑い、疑問がある所では、悪魔とその軍勢が大きな力を持ちます。信者が、神の御言葉に対する全き確信のゆえに、個人的に「私は知っています」と言えることの力を知る時、まさにその知識が敵に対する防具にもなります。ですから敵は、機会があればいつでも、疑いを差し挟むことによって、確信を阻むことを願っています。

神の事実の上に立ちなさい、自分自身の感覚という流砂の上に立ってはなりません。感覚のせいで疑っている人々もいます!救いは感覚の問題ではなく、神の事実です――「こう記されています」――神が仰せられたのです。神の御言葉には「罪定めはない」とあります。「キリスト・イエスの中にある者には、罪定めがありません」――ローマ八・一。新生した日から私たちはキリストにあって完全です。それは私たちの立場に関してであり、私たちには自分の状態を残念に思うもっともな理由があります。しかし、御言葉にはこうあります、「私たちの主イエス・キリストの恵みと知識の中で成長しなさい」――二ペテロ三・十八。「私の小さな子供たちよ、キリストがあなたたちの中に形造られるまで、私はあなたたちのために、再び産みの苦しみをします」――ガラテヤ四・十九、アメリカ改定訳。確かに、これは日に日に恵みの中で成長することです。

神の子供のあまりにも多くが、救いを感覚の問題だと思っています。それゆえ、敵に対抗するための戦う力が全くありません。(彼らは、「敵の策略に立ち向かえる」ようになるために、神のすべての武具を身に着けていません。)「こういうわけで、あなたたちの確信を投げ捨ててはなりません。それには大いなる報いがあるからです」――ヘブル十・三五。大いなる報い!――「それはあなたたちが満たされて、神の全豊満へと至るためです」――エペソ三・十九。信仰の確信により、私たちは敵の力だけでなく自己からも解放されます。私たちを耐えられるようにして、主の中で強くします。自分の救いの立場が確立される時、私たちは主にあって主権を行使する立場を持ちます。

地上で私たちは試練、逆境、悲しみ、苦難を通っており、「主は自分を見捨てられた」と思うよう誘惑されます。敵は四方から、訴え、罪定め、疑問、疑念、恐れをもって押し迫ります。「堅く立って、動かされることなく」、なぜなら愛する人よ、これは確立する原理の働きであり、私たちの信仰の訓練だからです。私たちは苦悩、労苦を経験します。覚えておいてください、この確立する働きがなされるのは、私たちの目が彼に向いている間です。状況が自分に不利で、自分を圧し潰そうとする時、私たちはイエスに目を向けます。彼は今や、私たちのために神の御前におられ、天と地のあらゆる権威と、他のすべての名に優る御名と、他のすべての主権の称号に優る主権の称号とを持っておられます。

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、彼を知る知識を得させ、知恵と啓示の霊をあなたたちに与えて、あなたたちの心の目が照らされ(光に満ち)、あなたたちが彼を知るように。(中略)また、神の力強い大能の活動(内なる力づけ)にしたがって、信じる私たちに働く彼の力が、どんなに超越して偉大であるかを知るように。神は、その力強い大能をキリストの内に働かせて、彼を死者の中から復活させ、彼を天上でご自身の右に座らせ、すべての支配、権威、力、主権、そしてこの時代ばかりではなく、来たるべき時代においても唱えられるあらゆる名を超えて、遥かに高くされました。また神は、万物をキリストの足の下に服従させ、そして彼を万物の上にかしらとして教会に与えられました。この教会は、キリストのからだであり、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です」――エペソ一・十七~二三。

この方こそ、私たちが目を向けるべき方です。信仰はこうして鍛えられます。そして、私たちは圧迫や逆境のただ中で、キリスト・イエスにあって立ち上がり、彼が私たちに与えてくださった地位――「彼と共に天上に座しています」――につけるようになります。「あなたたちは、キリストにあって満たされています。この方の中には、神たる方の全豊満が肉体のかたちをもって住んでいます」――コロサイ二・九。

ですから、試練を通して、確立する働きがなされます。それは、敵のあらゆる力と圧迫に対する彼の勝利の現われです。「神はわたしたちの主イエス・キリストを通して、わたしたちにその勝利(The Victory)を与えてくださいます」―― 一コリント十五・五七。そうです、これは彼の勝利であり、死を征服した命です―― 一コリント十五・五四。

神の都が建造されつつあります。そして、まさにその性質は永遠の命、不滅の命であり、私たちが挫折する時、私たちを支えてくれます。彼は忠信であり続けます。彼はなおも支えてくださいます。彼は永遠・不変だからです。これが私たちと共にあって、私たちは持ちこたえ、切り抜けます。「これらすべての事柄において、私たちを愛してくださった方を通して、私たちは勝ち得て余りがあります」――ローマ八・三七。これは奉仕でも同じです。この戦いはあまりにも大きく、私たちが通る経験はあまりにも奇妙で異様であり、あまりにも不可解であるため、すべては上下さかさまに思われますし、約束も効力を発揮していないように思われます。

約束の地にいるアブラハムを見てください……しかし、神が彼に与えられた約束は破られたかに思われます。アブラハムが間違いを犯したのでしょうか?時として、私たちは主のことで困惑するのではないでしょうか、彼の道は見いだし難いのではないでしょうか?すべてが混乱しているように見えますが、信仰は持ちこたえます。ある日、後になってその理由がわかる時、私たちは彼を賛美するでしょう。「義人の道は(中略)いよいよ輝きを増して真昼となる」――箴言四・十八。物事ではなく「道」であることに注意してください!この道の諸々の奥義の中には、神の隠れた奥義がいくつか含まれています。それらは彼の知恵と力を示す別の機会ではないでしょうか?すべて失われ、戦いはあまりにも大きく、経験することはあまりにも奇妙で、状況に対する鍵はまったく無いように思われる時、私たちは、「約束は神からのものだったのだろうか」と疑うよう誘惑されます。すべてが自分の期待とは正反対であるため、私たちは「自分は間違っているのだろうか」と疑問に思い始めてしまいます!その時こそ、主の中に堅く立って、その信仰の立場を維持すべき時なのです。

結局のところ、私たちの経験はとても似通っています。困惑、矛盾と思しきもの、戦いがあります。経験の形態は様々かもしれませんが、なんらかの形で、それは私たち全員に臨みます――それでも「彼は忠信であり続けます」。

これはどのように私たちを確立するのでしょうか?どうしようもない状況と私たち自身により、私たちは彼に頼らざるをえなくなります。その時、私たちは彼を立証するのです。あなたは神の奥義を知る地点に至ろうとしているのであり、それは彼にとってご自身の知恵を示す素晴らしい機会です。こうして、あなたは確立されます。それはすべて忍耐の問題です。

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