T・オースティン-スパークス
「すると、アグリッパはパウロに言った、『おまえは少しばかりの話で、私を説得してクリスチャンにしようとしている』。」(使徒の働き二六章二八節)
最初に言っておきますが、私たちは「クリスチャン」という言葉を新約聖書と全く同じ意味で用いることにします。そして、これを受け入れてもらうことを前提とします。私たちの探求は、まず消去法の過程を経ます。そして、「クリスチャンは何ではないか」について見ることにします。
クリスチャンは何ではないか
(1)クリスチャンになることは「宗教的」になったり、新しい「宗教」を取り入れることではありません。
クリスチャンでない人々はしばしば、キリストに帰依することを「宗教的になること」と言います。このような言い方やそれに関する考えは、全く不適切であり、根本的に間違っています。タルソのサウロの時代、彼ほど宗教的な人は地上にいませんでした。使徒の働き二二章と二六章、ピリピ人への手紙三章で、彼が自分のことを何と述べているのか読んでください。宗教的な熱意と情熱の炎で燃えている人だったのです。歴史を見れば、議論するまでもなく、宗教の痕跡がいかに広範に及びうるかがわかります。
宗教的なものにすぎない場合の「キリスト教」についてもこれが言えます。真のクリスチャンになることは、信条や教義文を受け入れることでも、一定の儀式や決まりを守ることでもありません。また、一定の奉仕や祭典に参加することでも、規定された生活様式に順応するべく多少なりとも励むことでもありません。これらのことに精通して、多くの良い働きをしていたとしても、当人は依然として新約聖書が言うところの真の「クリスチャン」の範疇外にあるかもしれないのです。「神に受け入れられている」と思い込むおそれがあるのです。この思いこみは苦い幻滅という結果になるかもしれません。主ご自身がこれを次のような驚くべき言葉であらかじめ語られました、「その日には、多くの者が私に言うであろう、『主よ、主よ、私たちはあなたの御名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか?』。そこで私は彼らにはっきりと言う、『私はあなたたちを全く知らない。私から去れ』」(マタイによる福音書七章二三、二四節)。
そうです、宗教はキリスト教ではありません。それ以上でもそれ以下でもありません。宗教は欺きにほかならないかもしれません。ですから、人々にクリスチャンになるよう求める時、私たちは人々に自分の宗教を変えるよう求めているわけではありませんし、宗教的になるよう求めているわけでもないのです。このような宗教は、これまで決してこの世を幸いにしたことはありませんし、良くしたこともありません。
(2)クリスチャンになることは、「教会」と称されている組織に加わることではありません。
もし人々が真理を知っていたなら、キリスト教会に「加わる」というような言い方はしなかったでしょう。自分の手足を自分の体の肢体にするために、言葉であれ、働きであれ、私たちはいかなる手続きもしたことはありません。私たちの肢体と私たちの体には区別がありません――私たちの肢体が私たちの体を構成しているのです。しかし、肢体が体を構成しているのは、組織、招き、審査、審問、教理問答によってではなく、ただいのちによります。キリストの教会も同じです。ただし、これは真のいのちの関係がある場合です。事務的意味合いの「会員資格」は不必要なものであり、脅威ですらあるかもしれません。この関係がないなら、いかなる「会員資格」もキリストの教会を構成することはできません。
多くの人たちは、いわゆる「教会」の「会員資格」を持っていますが、テストに耐えることができません。このテストについては、クリスチャンとは何かについて話す時に示すことにします。ここでは、「クリスチャンになるよう人々に訴える時、私たちは『教会に加わる』よう人々に求めているのではありません」と述べておくことにしましょう。キリスト教はたんなる組織や社交界の一つではないことを理解してもらわなければなりません。あなたは「教会」と称されている多くの場所に行くかもしれませんが、キリストと真に出会うことも、満足を見いだすこともないかもしれません。
もちろん、これは消極的なことです。しかし、私たちは次のことを理解しなければなりません。すなわち、私たちがクリスチャンになる時、私たちは再生された他のすべての信者たちと共にキリストにある一つのいのちを共有するのであり、そうして私たちはキリストにあって一つになるのです。これこそまさに教会です。ですから、私たちはこの関係を大切にして、それが破られないよう油断せずに見張らなければなりません。それには大きな価値があるのです。
(3)クリスチャンになることは、新たな運動の一部になることではありません。
確かに、キリスト教には運動としての面、天からの神の運動としての面があります。しかし相当数の人は、キリスト教のことをこの世を改善したり福音化したりするための大きな企てだと思っています。「来て、この偉大な『働き』に参加しなさい」という訴えが頻繁になされます。ほとんどの人がこのような訴えに応答して、大きな運動に加わろうとすることもあります。しかし、このようなアプローチのしかたは問題を招きますし、あるいは少なくとも間違っていることが遅かれ早かれ分かります。モーセは「運動」を起こすことをエジプトで思いつきました――しかし、その後四十年間、荒野で休止することになったのです。
「運動」に先立つものがあるのです。そして、その運動は神によるものであって、私たちによるものではありません。神の時が来る時、運動が始まります。その運動の最も重要な意義は、神なしでは動かないことを学ぶ、ということがしばしばです。
私たちは「運動に加わりなさい」とあなたに訴えることはしません。「あなたの天然の力と若い情熱をすべて注ぎ込めるものがここにあります!」と言って若者を招くこともしません。私たちはこう言います、「神には御旨があります。この御旨に関連して、神はあなたに関心を持っておられます。しかし――あなたを別人にする何かがあなたの内に起きない限り、あなたはその御旨を知ることすらできませんし、それにあずかることもできません。その御旨には天然の力や若い情熱以上のものが必要なのです」。
これは私たちを積極面に導きます。
クリスチャンとは何か
クリスチャンとは実際いかなる者かを示すには、ある人の例をあげるのが一番いいでしょう。その人は自分自身が偉大な例だっただけでなく、その人の経験はそれ以降すべての真のクリスチャンが経験してきたものでもあります。ローマのある「王」は、この章の冒頭の言葉でその人に話しかけました――その人とは使徒パウロです。彼が回心した方法は、普通のものでも一般的なものでもないかもしれません。しかし、原則は常に同じです。
ここに、真のクリスチャン生活の最初の三つの原則及び現実が示されています。
(1)「あなたはどなたですか?」「私はイエスです」
第一は、イエスが生ける方(生きていた方ではなく)であることを内側で悟ることです。
キリストに直面した時、パウロが発した最初の言葉は、「あなたはどなたですか?」でした。それに対して、「私はイエスです!」という明瞭な力強い返事がありました。これは驚くべき発見であり、「なんと、イエスが生きているだって?」とパウロは叫んだかもしれません。イエスは死に渡されて十字架につけられました。なすべき残りのことは、彼の記憶を消し去って、彼を示すものを破壊することだけです。この働きにパウロ(当時サウロ)は取り組んでいました。ですから、イエスは死んでいるのではなく生きており、しかも栄光の中にある、という事実に直面して、彼はどれほど周章狼狽したことでしょう。私たちにはほとんど想像できません。しかも、事実に直面しただけでなく、その方ご自身に直面したのです。
その意味や含蓄は、それ以降、多くの世紀にわたって、すべて教えられてきました。しかし、このメッセージを聞いている人のために、それをとても単純な問題にすることができます。私たちがクリスチャン生活を開始するのは、この生ける現実を経験することによるのです。史的イエスではなく、心で経験するイエスです。彼が実際に生きておられることを、私たちは検証しなければなりません。これは私たちの永遠の運命に関係する最も重要な問題です。私たちは自分たちの伝統、偏見、疑い、疑問、知的問題を落とし、静かにひざまづいて、見える人に向かって話すように(見えない)彼に向かって話さなければなりません。顔と顔を合わせていれば告げたであろうことを、真心から彼に告げなければなりません。最初の段階は、ひとりの人に向かって話すように、彼に向かってはっきりと話すことです。
これが発見の道です。新約聖書からわかるように、神の霊が世界を行き巡っているのは、まさにこの発見を促すためです――イエスは生きておられ、私たちを救い、私たちのいのちそのものとなられる、ということを現実のものにするためなのです。「イエスは生きておられる」というこの素晴らしい理解は、誠実に立ち返ってそれを試すすべての人の心に臨みます。そして、これからすべてが生じるのです。
イエスを知るには実際のところ一つしか道がありません。それは彼のもとに行くことです。その存在に関する内的証拠がない相手に向かって何かを言うのは、とても非現実的で馬鹿げているように見えるかもしれません。しかし、これは他の状況でも同じではないでしょうか?ある医者の話を聞いて、「この人こそ自分の病気を治せる人だ」と感じたとしましょう。あなたは「そんな人がいるなんて信じません」と言うでしょうか?「しばらく前にその人が殺されたことを示す証拠がたくさんあります」と言うでしょうか?わざわざその人の家まで出かけて行き、話に聞いた当人と会ってから、「あなたが医者だとは信じません」とその人に向かって言うでしょうか?もしそうするとしたら、あなたの病気はたいして重くないか、あるいはその重さを認めることをあなたが拒んでいるかのどちらかです。自分の必要を本当に自覚しているなら、あなたがなすべきせめてものことは、その医者のところに行って、自分の問題を告げ、こう言うことです、「あなたは私の病気を治せるという助言を受けました。お願いですから治してください。疑いや疑問もたくさんあります。しかし、私があなたのもとに来たのは、真摯な願いと信頼の表れなのです」。
友よ、イエス・キリストはこのような接触に対して、常に望まれた通りの振る舞いをする用意がありました。キリストは生ける現実であることを見いだすこと、これがクリスチャン生活の第一の点です。これは証しであるだけでなく、試金石でもあります。
(2)「主よ、あなたは私に何をさせようとしておられるのですか?」
二番目の点――パウロの場合だけでなく、すべての真のクリスチャン生活にも言えます――が、「主よ、あなたは私に何をさせようとしておられるのですか?」(使徒の働き二二章一〇節)という言葉に示されています。
これは新しい立場、新しい関係を示しています。昔のサウロの立場や関係とは、なんとかけ離れていることでしょう!それまで彼の生活や働きは自分自身から出ていました――自分がやろうと思うことや、自分の提案、決心、計画、決定、願望を行ってきたのです。「それは良い動機で行ったのです」と口では言っていたとしても、また「神のために行ったのです」とすら言っていたとしても、自己決定が彼の生き方でした。人は神のためになると信じることを最高の意図と熱意をもって行うかもしれませんが、かえってそれが神に大きな害を与えるかもしれません――しかも、自分自身はその事実に対して全く盲目なのです。サウロはこの事実の何という例でしょう。これについては後で再び述べることにします(二章の第二区分)。
ですから、ここでわかるように、一つのことが神に真に受け入れられる生活の明確な証拠です。それはイエス・キリストの絶対的主権です。パウロは回心の時、最初に「主よ」という言葉を用いました。「イエスは生きておられる!」ということがわかった時、自然にこの言葉が出てきたのです。その瞬間から、イエスが彼の主、主人になりました。この明け渡しと支配権の変化がどれほど徹底的だったのか、私たちは彼のその後の生涯から知っています。その時からすべてが、「主よ、あなたは私に何をさせようとしておられるのですか?」という基礎に基づくものとなったのです。
そうです、これと同じ内なる理解と明け渡しをもって、イエスに向かって「主よ」と言い、その後、自分の生活全体を主人である彼に治めてもらうこと、これが真のクリスチャン生活の証拠なのです。
(3)「あなたたちの内におられるキリスト」
クリスチャン生活に欠かせないしるしと特徴がもう一つあります。それを今、指摘することにします。それはアナニヤがパウロに語った言葉の中に示されています、「主イエスが私を遣わされました。それはあなたが聖霊に満たされるためです」(使徒の働き九章一七節)。
この基本的働きの究極的完成は――私たちはそれによって真の意味でクリスチャンになります――キリストについて言えることがすべて、私たちにとって内なるものにされることです。その時が来ない限り、たとえすべてが大いに現実的であって、深い変化が起きていたとしても、それはおもにキリストとの外側の関係に属します。しかし、その発見がどれほど偉大なものでも、それで済ませていたなら、致命的だったでしょう。私たちは一時の出来事に基づいて生きることはできません。どれほど新鮮な記憶だったとしても、たんなる記憶の力では私たちに敵対する凄まじい悪の勢力をすべて対処することはできません。外面的・客観的でしかないものに基づいて、勝利の生活を送ることは決してできませんし、効果的に奉仕することも、神を真に満足させることも決してできません。
実を言うと、キリストだけが神を真に満足させることができ、キリストだけが神の御旨と神の働きを行うことができるのです。キリストだけが悪の霊の勢力に打ち勝つことができます。そうです、キリストだけが真にクリスチャン生活を送ることができます。ですから、クリスチャンの栄冠たる偉大な包括的現実は――キリストご自身が内側におられるということなのです!パウロは後にこれを、「あなたたちの内におられるキリスト、栄光の望み」(コロサイ人への手紙一章二七節)という言葉で表現しました。
これは信じる時の一つの明確な行いによって実現されます。聖霊は私たちを内なる方法で満たしてくださいます。キリストが死んで復活し、栄光を受けられるまで、歴史上誰もこのキリストの内住を経験したことはありませんでした。ですから、これはクリスチャン特有の驚異であり、栄光なのです。「新しく生まれる」という新約聖書の言葉の意味は、まさにこれです。このようなことは前にはなかったのです。
ですから一言で言うと、「クリスチャンとは何か?」という問いは、三つの初歩的な答えで答えることができます。
(1)イエスが生きておられることを理解すること
(2)絶対的な主として彼を王座につけること
(3)聖霊により、彼を内なる臨在及び力として持つこと
真のクリスチャンの証しは、常に次のようなものでなければなりません。
彼は生きておられる!彼は生きておられる!
キリスト・イエスは今日生きておられる!
彼は私と共に歩み、私に語られる、
人生の狭い道を進みつつ。
彼は生きておられる!彼は生きておられる!
救いを与えるために!
彼が生きているとなぜわかるのでしょう?
彼は私の心の中に生きておられるからです!
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