T・オースティン-スパークス
聖書朗読:士師記二・七、二三、三・一、三一。エペソ一・一七。二コリント四・四、六、七。
愛する人よ、主にはこの時、霊の力の回復というこの大問題に関して私たちに話すべきとても重要なことがあると、私は感じています。それはほんの一言ですが、聖霊がその言葉を発して、私たちがそれを理解できるようになるとき、それは主にとってとても重大な意味を持つことになると私は確信しています。それは霊的知識の問題と関係があります。思い出して下さい。私たちは霊の力の問題に専念していますが、霊の力にとって霊的知識は非常に重要です。
私たちが読んだ節についてざっと考えるなら、これはそれらの節のすべてに含まれているものであることがわかります。士師記は普遍的弱さ、完全な失敗、悪の勢力を対処する上での徹底的無力さを示していることを覚えつつ、士師記のこれらの節に戻って下さい。読み終える時、一つの焦点、その状態に対する基本的な点がわかります。それは、神の働きに関する経験的知識を持っていた世代が過ぎ去って、神の働きについて何も知らない別の世代が後を継いだことです。これを読んでも、この世代は神の働きについて何も知らなかったという結論をあなたは下さないでしょう。彼らの父祖たちが経験したことを史実として何も知らずに、彼らがその世代の跡を継ぐのは不可能だったでしょう。しかし、結果的に、彼らはそれを経験的に何も知りませんでした。つまり、彼らは生き生きとそれに触れておらず、霊的にその一部ではなかったのです。彼らはそれについてすべて知っていましたが、主やその力強い働きを現在の経験として知っていませんでした。その歴史の霊的実際は彼らの歴史の中に受け継がれませんでした。それにより、この士師記に示されている状態が生じたのです。
エペソ書の節に来ると、自分が天上にいることを思い出します。そして、エペソ書の結果、その壮大な頂点は、信者たちの内に最終的に、キリストについて最初にそうだったものを有効化することであることを思い出します。神は彼をよみがえらせて、天上でご自身の右に置き、あらゆる支配・権威・主権・権力よりも遥かに高くされました。主イエスの場合これは真実であり、彼はそこにおられます。一章のこの点と壮大な頂点である六章との間にあるものはみな、聖徒たちを経験的にその地位――そこでは主権者たちや権力者たちに対する彼らの格闘はキリストの格闘と同じように効力を持つものにされます――にもたらすことを目的としています。エペソ書の結果は、私たちもキリストにあって天上にあるようになること、邪悪な霊の軍勢と接触するようになること、キリストにあってあの優位性を知るようになることです。さてそこで、キリストの地位に関して、そして私たちがそれに近づくことに関して、まず最初の点は霊的知識であることに気づきます。「あなたたちの心の目が照らされて、あなたたちが知りますように」。あなたは知ることができます。「栄光の父が、知恵と啓示の霊をあなたたちに与えて、あなたたちに御子を知らせて下さいますように」――これは霊的知識です。
私たちが読んだコリント書の節に来ると、そこでは途方もないことが述べられていることに気づきます。「その力の卓越した偉大さが神のものであって、私たちのものではないことを」。その力の卓越した偉大さとは何でしょう?それは土の器の中に私たちが持っている宝である、と述べられています。「神は私たちの心の中を照らして、その知識を与えて下さいました……」。それはイエス・キリストの啓示です。それが霊的知識です。もちろん、それは主です。しかし、私たちの理解、私たちの知識の外のものとしての主ではありません。啓示された主です。主です。
主ご自身と彼が持っておられるものは、依然としてすべて私たちから離れており、したがって無効かもしれません。私たちとその力の卓越した偉大さ――それはキリストの内にあります――との間の絆は、霊的知識という絆です。霊的知識が絆です。それはあなたが知るためです……キリストのすべてが私たちの中に、また私たちを通して実際に働くようにするのは、彼についての啓示です。さて、これに反対すること、聖霊によって私たちの心の中に臨むこの啓示に反対することに、敵の力はすべて注がれています(キリストご自身に反対することに注がれているわけではありません――敵がそうしようと企てても成功する望みはありません。敵にはそれを攻撃しないに足る十分な分別があります。敵はいと高き大能者の右におられる主イエスご自身には反対しません。それには反対しません)。「この時代の神が信じない者たちの心を盲目にしています。それは……」。それは、それが聖霊によって私たちに対して、また聖霊によって私たちの中に、啓示されないようにするためです。なぜなら、自分自身の心の中に主イエスを啓示する霊を個人や人々がひとたび受けるなら、自分の立場は失われ、自分の力は弱められることを敵は知っているからです。それで、神が私たちの心の中を照らされる時、霊の啓示と霊的知識が問題になる時、これが実際的な問題となります。ですから、これはとても重要であり、霊の力の大きな秘訣は霊的知識である、と私は再び述べることにします。
私の供給や話は無力です。これらの事柄を供給することを欲する人はみな、ここでは無力です。述べられた事柄に知的同意を与えること、知的に理解すること、真理であると認めることは、あなたがそれを完全に得たことを意味しません。頭が痛くなるまでうなずいたとしても、依然としてこの事柄では子供のように無能であるおそれがあります。これはどうしようもありません。話すことでそれを乗り越えることはできません。それは起きなければなりません。生じなければなりません。それが生じる時、強力な何かが神のために打ち立てられます。それは時として長い旅です。聖書や頭脳の中の言語化・体系化された真理知識を、生き生きとした、力強い、効果的なものにして、自分の存在のまさに一部とする旅です。時としてそれはとても辛い旅です。多くの苦難や大きな代価なしに乗り出せる旅では決してありません。この啓示の伝達にこの時代の神は抵抗します。私たちが真理を形式的な方法で知的に得ることに彼は抵抗しませんが、私たちが聖霊によって啓示を得ることに抵抗します。そして時として、述べられたことに私たちが同意するとき、まさにそこで彼は話を逆転させます。私たちはそれに同意し、それに同意したことによって「自分はそれを持っており、今やそれを知っている」と思ってしまいます。それを携えつつ立ち去って、「今、主よ、これはまさに命とならなければなりません」と言う代わりにそうしてしまうのです。
主から私たちに与えられるものにはみな、現場での徹底的訓練が必要です。まったく見事で素晴らしい話やメッセージを聞くことではありません。それにどれだけ力や権威があるのか、それがどれだけ徹底されたのか、その在り処が頭の中かそれとも存在中なのかは、すぐに分かります。それは存在のまさに繊維中に造り込まれなければなりません。それが済まない限り、それは無力な真理です。理解された真理、効果的な真理ではありませんし、啓示でもありません。ですから、無力です。また、事の価値を示す証拠は悪の勢力に立ち向かう能力にあります。神の御言葉から諸々の公式を取って来て、それらを一般的な方法で見境なく適用し、聖書を引用しようとしても無駄です。医者が薬局から物を取って来て、ある症状を示す何らかの症例に試験・適用し、それがどのように効くのかを調べるのと全く同じように、神の御言葉から何かを取り出すことはできません。それは効果がありません。とても実際的な方法でこれを証明しなければなりません。それは生けるものにならなければなりません。そして、聖霊によって特定の必要に応えて結果を生じなければなりません。それは命から生じます。
あなたたちの多くはおそらく、神のみこころの中で、主のための奉仕の領域に進み出ようとしているかもしれません。かなりの量の聖書知識と、聖書中に含まれている様々な教理についての知識を携えて進み出ようとしているかもしれません。おそらく、大量の真理、いわゆる「光」を携えて進み出ようとしているかもしれません。ああ、私はあなたに訴えたいと思います。あなたに警告したいと思います。主は次のことをあなたに語ることを望んでおられると私は感じます――すなわち、それでは不十分だということです。もしそれだけなら、あなたは最悪な目にあうでしょう――打ちのめされて駄目にされるでしょう。あなたはそうなるでしょう!愛する人よ、効力を発揮する唯一のものは、聖霊の啓示によってあなたの中にあるものであり、それは神と共なる徹底的訓練から生じます。それはあなたの存在の深みにおける神との隠れた歴史の結果です。あなたの存在の深みで、おそらく辛苦、苦悩、多くの苦難を通して、それはあなたのまさに命になったのです。あなたの命を救い、あなたの永遠の希望のまさに基礎となったのです。ただこれだけが状況に処することができます。今日、世界にはたくさんの教えがあります。たくさんの真理が出回っていますが、ああ、裁いたり批判したりする気はありませんが、その大部分は功を奏しておらず、霊的状況に対して神の御座の衝撃力を及ぼしていないと言っても構わないのではないでしょうか。そして、これがあなたの気がかりであり、私の気がかりです。さらに少し出て行って、この務めの中にますます入るにつれて、ますますあなたは自分自身の教え、集会、大会にうんざりするようになります。語ることや話すことにうんざりするようになります。あなたが呻いて叫び求める唯一のことは、「ああ、御言葉が伝わって、何かをなしてくれますように――粉砕して打ち破って下さいますように!」ということです。御言葉によって何かがなされなければなりません。これが人々の良心を打たなければなりません。
神の御言葉は御霊の中で常に真の効力を発揮してきました。それは知性に対するたんなる知識ではなく、良心を打ちます。そして、良心が打たれない限り、御言葉は機能しません。そして、御言葉が御霊の力の中で発せられない限り、それは決して起きません。また、その器は、それ自身は土でできていますが、それを外側のものとしてではなく内側に持たなければなりません。あなたたちが人前に出て行くとき、最も聖なる方の雰囲気ではなく研究の雰囲気を帯びているのではないかと私は恐れます。彼らに及ぼす印象、そしてあなたの話に対する彼らの理解は――「この人は自分の聖書を学び、聖書に関するたくさんの本を読み、聖書に関する専門知識を持っている」云々というものです。それでは駄目です。それでは効果がありません。これを強調するのを辛抱して下さい。私はこの点に関して大いに真剣です。それは真理ですが、命の中に、神の力の中にある啓示ではありません。御言葉の学びを無視してはいけませんが、それは聖霊の手段にすぎないことを覚えておいて下さい。もしあなたが「御言葉は見事な順序で述べられるなら、効力を発揮する」と考えるなら、それは失敗します。それは啓示ではありません。それは聖霊によって臨んで、内側を照らさなければなりません。愛する人よ、あなたが聖書を開いて座り、「さあ、ここに啓示があります」と言ったとしても、啓示は臨みません。それは恐ろしい訓練、問題、深淵を通して臨みます――あなたは状況をくぐり抜けなければなりません――あなたが自分自身に絶望するようにされる時――その時、それは命となり、あなたは主を理解し始めます。
ご存じのように、それを通して神が事を行われた民・世代は、神の力を経験的に知っていた世代であり、まったく弱かった世代は、その歴史をすべて持ってはいたものの、主を経験的に知らない世代でした。数々の事柄を通り抜け、ヨルダン川を通り、小刀で割礼を受け、ギルガルで彼らの間を小刀が通った世代――この世代は知っていました。そして、神はこの世代と共に最初に力強いことを行われました。主を知らなかった世代が士師記の世代です。私は次のことを確信しています。内側に造り込まれた主イエスの啓示という立場の上に立たない限り、私たちは進み続けられないでしょう。これには上辺の言葉以上の意味があります。私たちは数々の経験を通ることになるでしょう。そのとき、もし主を実際的な生ける方法で知らないなら、神は御言葉通りの方ではないと証明するかのように思われる時を私たちは過ごすことになるでしょう。キリスト教、クリスチャン生活はすべてまがい物であると証明するかのように思われる時を過ごすことになるでしょう。そうです。クリスチャン生活は話に聞く通りのものではまったくないと証明するかのように思われる数々の経験をする可能性があります。祈っても、祈りはかなえられません。主から得る正当な権利があると感じるものを、あなたは得ません。主を知らなければくぐり抜けられない数々の経験をあなたはするでしょう。なぜなら、信じるすべてのことが崩れ去ったかのように思われるからです。それは外側の問題ではなく、あなたが自分自身の心で主をどれだけ知っているかです。
ほんの僅かな真の啓示、霊的知識は、知的に理解した真理の山全体よりも、遥か遠くまで進みます。これらの事柄を語る時、誰もがここでは無力になると言えます。これは誰にでも伝えられることではありません。それは霊的知識です。しかし、あなたはそれを指摘することはできます――「これに関して私たちは主のもとに行かなければなりません」と言うことはできます。この問題をすべて主のもとに持って行きなさい。私たちにとって、それは神の御言葉の中からとても多くの事柄について聞くということでは決してありません。そうではなく、私たちは主に戻らなければなりません。「今、主よ、私はそれを信じます。それに同意します。しかし、私は知っています。このことと、それが私を通して暗闇の軍勢に向かって働く強力な力になることとの間には、ある違いがあるのです」。ですから今日、多くの人は大量の真理を持っているけれども、その力をほんの少ししか持っていない、というこの状況を私たちは見い出します。力が欠けているだけでなく、大量の真理の傍らで営まれている生活の中に恐るべき矛盾があります。それは私たちの隠れた神との歴史の問題です。内側で進行していること、私たちの公的生活の背後にある私たちの存在の深みにある事柄の問題です。
ああ、公的生活の罠。公的生活の罠とはこれです。すなわち、主の奉仕において、私たちは何か言うべきことを持っていなければならないのです。私たちはそれを得ます。何か言うべきことを得ます。行って何かを用意し、学び、書き、まとめ、そして「これは主のメッセージです」と言います。それはこのようなものではありません。それは、それが自分たちに期待されているから、その時のために造り上げたものです。それはその時のためのメッセージです。そして、その時のためのメッセージを与えて下さらなかった神のために語る人には禍が降りかかります。神ご自身が私たちにあってその時のために語られるのでない限り、話すのを拒否する地点に私たちは達しなければなりません。これには勇気が必要ですが、それは解放を意味します。それが力です。それが御言葉です。この意味を真に理解するとき、私たちは霊の力への鍵を得ます。私自身については、この個人的な言葉を許してもらえると思いますが――私が話しているのはこの大会のために造り上げたものではありません。もし主がこのメッセージを私に与えておられなかったとしても、話してくれる多くの他の兄弟たちがいたでしょう。私はあなたたちに保証します。主が私にメッセージを与えて下さらなかった集会では、私は話すことを拒否します。私があなたたちに話していることは私にとって生きるか死ぬかの問題であることを信じてもらえるでしょうか?これは経験から生じています。そうです、厳しい経験から生じています。あまりにも厳しかったので、主が私たちを通り抜けさせて下さっていなければ、私たちは決して切り抜けられなかったでしょう。最も貴いものの一つは啓示の問題です。神の御言葉とは別のものではなく、神の御言葉の背後にある主の御心です。
霊的知識の問題は霊の奉仕と力の問題における重大な要素です。主が秘密裏に行っておられることの多くはこれで説明がつくと私は信じています。もう一度言わせてください。今この時、この今の時代における、神の最も偉大な数々の働きは、ほとんどすべて、隠れた働きであり、秘密のものです。この時代全体を通して悪魔が常に試みてきたのは、キリスト教を誘い出してそれを大衆運動、一般的なものにして、それを国家に結び付けること、あるいは、何らかの方法でその中に混合した群衆を入り込ませることです。それを発達させて、それから公的なものを造り上げることです。教会が示されて神の栄光を表すのはこの時代ではありません。それは隠されており、それを見ているのは霊の軍勢だけです。彼らはそれを見ています。来るべき時代、教会は「国家」と結びついた公的団体になるでしょう。天的国家です!それは今は隠れた働きであり、内的なものです。こうしてギデオン――土の器ですが、その中に明かりがあります――に辿り着きます。二コリ四・七。土の器ですが、その中に力があり、その力によって敵の軍勢は追い払われます。彼らがその器の中に持ち運んでいるこの秘密のものによってです。これが力です。これが敵を対処する力です。あなたが内側に持っているものです。この現われが可能になるのは、私たちが砕かれる時です。神が私たちの心を照らして下さっています。
私はあなたに勧めます。多くのものを秘密裏に主と共有するようにして下さい。主の数々のメッセージを受け取って下さい。述べられた事柄――あなたはそれに対して知的に完全に同意しています――を受け取って下さい。そして、「自分の知性がそれに応えているのだから、自分はそれを持っている」とは思わないで下さい。試金石はそれが機能しているかどうかです。敵がそれについて知っているかどうかです。それが試金石です。途方もないものなのです、霊的知識というこの問題は。それが外側のものなのか、それとも内側のものなのかは。それが問題です。あなたの霊的知識は外側についてでしょうか?これを強調するのを許して下さい。私はこの場所をとても恐れています。ひどく恐れています。なぜなら、ここは多くの教えがある場所だからです。この場所をしばしば訪れる人々、最初からこの場所にいる人々は、あらゆる教えを得ているかもしれませんが、それでも彼らは依然として事の外側にいます。それらには必要不可欠な要素としての価値はありません。外側にいることは、何の教えもないことよりもずっと悪いことです。まさにその教えがあなたにとって罠かもしれません。それはあなたの内側にあるでしょうか?それにはみな価値があるでしょうか?それは敵を追い払うという主の御旨に役立っているでしょうか?その効力はいかなるものでしょう?敵はそれをどう思っているでしょう?あの恐ろしい戦いの意味は何でしょう?その戦いを通り抜けるとき初めて、啓示の務めが存在するようになります。まるで地獄が抵抗しているように思われます。そして、発言は沈静化させられます――悪魔が何かを恐れていないのだとすると、その意味は何でしょう?愛する人よ、神のすべての子らを悪魔が恐れるようにならなければなりません。彼ら自身のゆえにではなく、聖霊によって彼らの内にあるもののゆえにです。彼らの外面や、彼らが知的に同意しているもののゆえにではなく、彼らが知っているもののゆえにです。まさに聖霊の力が彼らの中にあるのです。
もし三百人が器を持っていて、御力の卓越した偉大さという宝を持っているなら、その三百人は三万二千人に優ります。ギデオンの箇所に来ると敵の多さがとても強調されていることが分かりますが、これはものすごく印象的なことだと思います。聖霊は敵を対処するのに欲しいものを獲得される時、敵の多さを隠しません。ですから、聖霊は次のように書き記させました。「ミデアン人とアマレク人、そして東方の民の数はいなごのようだった」。
聖霊はあなたを大勢の敵の中に導かれますが、それが何だというのでしょう?――御力の卓越した偉大さがこれらの三百人と共にあるのです。彼らは暗闇の中に出て行きました。勝利をもたらす戦略的道具として土の器と明かりを携えて出て行きました。なぜなら、剣は抜かれなかったことを思い出して下さい――剣による大破壊は、敵がすでに混乱に陥って敗北するまでなされませんでした。功を奏したのは明かりと、そして信仰の叫びでした。彼らはそれを内側に得ていたのです。さて、主はそれを私たちの内側に与えて下さいます。自分自身の霊を常に調べなければならないということではありません。自分の霊の中に持っているものを常に受け入れなければならないということではありません。むしろ、主を知る確かな知識の中で行動しようではありませんか。大事なのは器ではなく、主です。大事なのは私たちの心の中におられるイエス・キリストの御顔にある、神の栄光を知る知識の光です。そして、これはキリストの栄光の福音です。彼が栄光の中におられること、それと共にそのすべての内容と意義が福音です。キリストの栄光の福音が私たちの心の中を照らします。これが力です。どうか主が、御名のために、これを私たちに対して言葉以上のものにして下さいますように。
ただで受けたものはただで与えるべきであり、営利目的で販売してはならない、また、自分のメッセージは一字一句、そのまま転載して欲しいというセオドア・オースティン-スパークスの希望に基づいて、これらの著作物を他の人たちと共有する場合は、著者の考えを尊重して、必ず無償で配布していただき、内容を変更することなく、いっさい料金を受け取ることをせず、また、必ずこの声明も含めてくださるようお願いします。