T・オースティン-スパークス
聖書朗読:ネヘミヤ記一章四~一一節
この祈りは六つの異なる特徴や特色にまとめられるように思われます。一緒に読むなら、それが何かわかるでしょう。「私はこの言葉を聞いた時、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈った」。ネヘミヤは泣き、喪に服し、断食しました。これは確かに苦悩、苦難、辛苦です。しかし、これはとりなしの祈りの最初の特徴です。このような心の状態から、あらゆるとりなしの祈りが始まります。これまで時を費やして明らかにしようとしてきたように、ネヘミヤ記に記されていることはすべて、この苦難、主の権益に対するこの関心の結果です。また、それはすべて祈りから生じたものであり、その祈りは苦しみの祈りです。私たちは毎回立ち止まって、「主の民の間の霊的状況は、自分に深い心の悲しみを与えているでしょうか?自分はこれまで証しのために泣いたことはあるでしょうか?主の民の霊的状態について喪に服したことがあるでしょうか?」とまず自問しなければなりません。
主を知ること
さて次の点です。五節「私はあなたにお願いします。ああ、天の神、主。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を愛する者には、契約を守り、いつくしみを賜る方」。これは何を示しているのでしょう?真のとりなしの祈りにとって大いに重要な法則がここに働いています。それは主を知る知識です。つまり、主を知ることです。自分の相手がどのような神なのかを知ることです。この祈りが進むにつれて、主を知る知識がますますよく現れてくることがわかります。なぜなら、ネヘミヤは申命記の主ご自身の御言葉に主を連れ戻し、主が当時民に語られたことが文字通り実現したことを示して、それに基づいて祈っているからです。主が実質的に言われたのは、「あなたたちが私の命令を捨てるなら、私はあなたたちを国々の間にまき散らす。そして、あなたたちは私にとって民ではなくなる」ということでした。「あなたは契約を守られます」とネヘミヤは言います。「さらに、『あなたたちが私の命令に立ち返るなら、私はあなたたちを再び集める』とあなたは言われました」(申命記二八章六四節~三〇章一三節)。彼は主を知っていることがわかります。彼には苦難、苦悩、辛苦がありますが、主を知っています。これが背景です。
ねばり強さ
「どうか今、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、あなたの僕の祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべであるイスラエルの子たちのために、昼も夜も御前に祈り、イスラエルの子たちの罪を告白しています」。中心的な句である「昼も夜も御前に祈り」を見ることにしましょう。これは祈りのねばり強さであり、辛抱強さです。執拗さ、と言ってもいいでしょう。これは、この問題をやすやすと見逃せないこと、不真面目に取り上げられないことを意味します。これについて彼は神にすがります。もちろん、その周辺にはもっと多くのことがあるかもしれませんが、とりなしの祈りは神の御前に駆けつけて何かを言い、すぐにまた出ていってしまうことで成就されるようなものではありません。主の御旨を成就するとりなしの祈りは、昼も夜も絶え間なくのしかかる重荷です。ここでまた、私たちの心は大いに試されるはずです。この試みに立ち向かえる人がどれくらいいるのか、私にはわかりません。夜中にふと目が覚めた時、心は自然に主の方に向かうでしょうか?私たちは主の御前でこの問いに答えなければなりません。一つの言葉、一つの叫びを発するだけかもしれません。しかし、それは自分の心にその重荷が絶えずのしかかっていること、その問題が常に心にあることを示します。夜中に目が覚める時、あなたは他の多くのことを思うかもしれません。しかし、第一に心を占めているのは、主の権益と証しに関する、主に向かう心の苦しみです。「そのことで私は昼も夜も祈り」。そのことが常に心の中にあります。常に絶えずあります。苦しむこと、主を理解する理解力や主を知る知識があること、そしてねばり強く執拗であることが、真のとりなしの祈りの特徴です。
身代わりの悔い改め
さて、六節の次の点に進みます。「私は、私たちがあなたに対して犯した、イスラエルの子たちの罪を告白します。まことに、私も私の父も罪を犯しました」。この種の告白には、同一視という要素があります。自分にはまったく責任がない事柄、自分だけでなく他の多くの人にも責任がある事柄を、ある人が告白する時、また、それをまるで自分の責任であるかのように告白する時、それが同一視です。この種の告白がなされる時、それは承認であり、悔い改めです。ですから、これを告白の特徴と言えると思います。単語の代わりに句を用いるなら、他の人のために悔い改める身代わりの悔い改め、と言えるでしょう。しかし、悔い改めで十分です。この言葉はそのすべてを意味します。このメッセージで述べようとしてきたように、私たちは自分のことを他の人々から隔たっている者、分離している者と見なしてはなりません。また、まるで自分とは関係がないかのように、裁きと罪定めと批判の姿勢で物事を見てはなりません。私たちは一つからだの肢体なので、一つの肢体が苦しむなら、それと共にすべての肢体が苦しむのです。そして、その苦しみはからだ全体の苦しみなのです。これが真実であることを、私はキリストと共にはっきりと確信しています。キリストのからだのどこかの部分が欠けるなら、その程度に応じてキリストも苦しまれます。なぜなら、キリストが完全に表現され、実現されるには、完全なからだ全体が必要だからです。ですから、キリストは苦しまれるのです。そして、からだのどこかの部分が欠けるようになるとき、私たちはキリストの苦しみの中で苦しむようになります。これが「キリストの苦しみの欠けたところを補っている」という使徒の言葉の意味ではないでしょうか?これが真のとりなしであり、告白と同一視の祈りです。
神の御言葉を信じる信仰
「どうか、あなたの僕モーセにお命じになった御言葉を思い起こしてください。『あなたたちが違反を犯すなら、私はあなたたちを諸国民の間に散らす。しかし、あなたたちが私に立ち返り、私の命令を守り行うなら(中略)私は彼らを集め(中略)私の名を住まわせるために私が選んだ場所に、彼らを連れて来る』」。私がこの言葉に見たものは信仰でした。なぜなら、神の御言葉を根拠として持ち出し、神の御言葉に立って、「私はこの御言葉を信じます。その上に立ちます」と言っているからです。これが効果的な祈りの根拠であることがよくわかります。先日、私は詩篇一一九篇を読んでいて感銘を受けました。そして、「あなたの御言葉にしたがって」、「あなたの御言葉にしたがって生かしてください」、「あなたの御言葉にしたがって私を強めてください」云々という句が出てくる箇所に下線を引きました。ダビデは御言葉の根拠に基づいて神に懇願し、神を信じる信仰を堅固なものにしました。神と御言葉は似通っており、不変であり、変わることがありません。確立されており、信実です。神の御言葉を根拠にすることができるとき、私たちは確信の根拠、確かな信仰の根拠を持ちます。「あなたの御言葉にしたがって私を生かしてください」というこの道筋に沿ってさらに訓練されることは、私たちにとって大いに良いことです。これは神の御言葉を信じる信仰です。主はそれを尊ばれます。主のもとに行く時、私たちは確信の根拠を持っているべきです。さて、ネヘミヤはひたすら主にご自身の御言葉を思い起こさせています。ああ、それはなんと神の御言葉にかなっていたことか!イザヤ書五八章を見てください。さて、イザヤはネヘミヤの時代のずっと昔に生きていました(もちろん、書物の配列はあなたを困惑させるかもしれませんが、彼はネヘミヤの時代のずっと昔の人でした)。イザヤは言いました。「あなたが自分の間からくびきを除き、うしろ指をさすことをやめるなら(中略)安息日に出歩くことをやめ、私の聖日に自分の好むことをしないなら」。さて、どうなるのでしょう?「あなたは『破れを繕う者、市街を住めるように回復する者』と呼ばれるであろう」。これがネヘミヤです。ネヘミヤは主に御言葉を思い起こさせました。そして、主はネヘミヤを通してイザヤ書五八章を実際に成就されたのです。信仰によって御言葉を主張することが基礎であることがわかります。
全き明け渡し
さて、最後に一一節です。「ああ、主よ、どうか今、この僕の祈りと、あなたの御名を喜んで畏れるあなたの僕たちの祈りとに、耳を傾けてください」。主を畏れることは、それを神の御言葉全体の光の中で学ぶなら、自分を神の御旨に全く明け渡すこと、神の御旨を第一とすることをまさに意味します。「父よ、この杯を取り除いてください。しかし、私の意志ではなく、あなたのみこころがなされますように」と主イエスが言われた時、彼は「畏れのゆえに聞き入れられ」ました。これは、代価がいかなるものでも、全く絶対的に神の御旨に明け渡すことでした。これが主を畏れることであり、知恵の始まりです。ここで次に、この一一節の中心的な点として、主を喜ぶことがあります。明け渡しでも、献身でも、どちらでも好きな言葉を使うことができます。「あなたの御名を喜んで畏れる」あなたの僕たちの祈りに耳を傾けてください。これは主への明け渡し、主への献身です。よくご存じの通り、個人的な事柄や自分自身の喜びと満足をすべて取り去られて、主の権益だけが心を治めるようになる地点に達しない限り、私たちは決してとりなしの祈りを祈り抜けません。この祈りには卓越した叫びがあると思います。真のとりなしの祈りを祈るには、その地点に達しなければなりません。あなたは祈ってきましたし、執拗で、ねばり強く、情熱的でした。あなたは苦しんできましたし、神の御言葉の上に立ってきました。しかしそれにもかかわらず、そこには何かあなた自身の願いの片鱗があって、苦しみを強めているかもしれないのです。御言葉に関するあなたの立場がいくら正しくても、個人的な関心をすべて取り除かれない限り、主は待たなければなりません。主の御旨だけが目的となる地点、主が御旨を行えるようになる地点に達する時、私たちは主の御旨がなされることだけを願うようになって、主を喜ぶようになります。喜んで主の御名を畏れ、主の御旨に全く明け渡すようになります。その時、私たちはさえぎるもののない道を主と共に歩み、祈りの霊の中で祈り抜きます。私たちは遠くまで進んで来ましたが、主が私たちに言うべき最後のことは、「あなたはこのような状態にあるでしょうか?この問題に関して、あなたは何か個人的な関心を抱いているのではないでしょうか?」ということです。それは自分自身の願いなのか、それとも結局のところ、主ご自身の楽しみと喜びなのか、私たちは心を探ってもらわなければなりません。また、自分の求めていることが主の喜びのためではないなら、それを望まないのかどうか、私たちは心を探ってもらわなければなりません。その地点に達する時、私たちはさえぎるもののない道を持ち、祈りは全うされます。
このように、ここにとりなしの祈りの模範があることがわかります。このささやかな分析から、「突発的な祈り――後で出てくるような突発的な祈り――が効力を発揮するには、この祈りの深い背景――そこではすべてがこのようです――がなければならない」という言葉の意味がわかるでしょう。他のあらゆる祈りもこの基礎の上に築くことができます。これは基礎なので、他のあらゆる祈りもここにあります。あらかじめすべて篩にかけられているのです。
主の喜びのために特別に用いられる僕は、このような種類の祈りの僕です。私は信じていますが、この黙想は私たちの心に主のこの願いを新たに示してくれるでしょう。光の道で私たちにもたらされるものを、私たちはすべて徹底的に祈り抜かなければなりません。私たちの務めが成就されるには、前にも後にも祈りがなければなりません。主はこれを私たちの心に記してくださいます。
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